軽々しく「推し」なんて使えない ~推しという言葉に対する所感~
私はどんちゃんこと宮下真実を推している。
以前にも述べたことなのでご存じの方もいるだろう。
だが、ふと「推している」とは一体どういうものなのか?という思いが頭をよぎった。
そもそも「推し」とは何か。
「一推しのメンバー」を意味する略語「推しメン」のさらなる略語。
グループ内で「一番お気に入りの人」「一番応援している人」を指す。
pixiv百科事典より引用
要するにファンが自分の応援している(お気に入りの)人を指して読んでいるのである。別にグループでなくても個人を推している場合でも使われる。*1
推しに対するファンの情熱はそれはもう熱いものがある。
イベント参戦、関連グッズ購入は当たり前。常に推しの最新情報をチェックし、何か動きがあれば推しを最優先にスケジュールを調整する。
たとえその過程でどれだけの金額を使おうが睡眠時間が失われようが一切悔やむことなく、寧ろ
・推しに貢献出来た!!
・最高に幸せなひと時を過ごせた!!
として充足感を得て一層推し事に励むのである。
私の身の周りでも推しに対して熱い情熱を注ぐ人たちがいて、推しに全財産をつぎ込む人、コロナ禍による推しのイベント中止で目が死んでいる状態で生きている人など、推しの存在がその人の生きる糧になるくらい重要な立ち位置になっている。
そんな推しへの熱い情熱を惜しげもなく注ぐ人達を見たところで「推し」という言葉の持つ意味、そして重さを考えてみた。
ここで言いたいのは、「推し」という言葉は軽々しく使えない、ということ。
「○○推しです!」と宣言したからには推しのために全てを捧げるくらいの覚悟が求められる、そう私は思っている。
なまじっかな気持ちで推しを宣言しようものなら足りない部分を指摘された際に、
「○○推しなのに知らないの?」
「○○推しとして愛が足りなくない?」
なんてマウントを取られそうで怖いのだ。
そんな怖い思いをしないようもっと推しに詳しくなろう!
…とはなかなか思えず、気軽に○○推しだと名乗ることが出来ない。
こういう手合いの意見を述べると、
『別に○○推したる者こうあるべし!ってなる必要はない!』
『○○推しならそうだと胸を張って良いじゃないか!』
なんて意見が返ってくるだろう。実際、好きなものは好きと言う姿勢は大事である。
しかし、そこは考え方の違いというか。
「○○を応援してます!」と言うのと
「○○推しです!」と言うのでは意味合いと言うか、対象への熱意が違ってくる。
どちらも相手を支持することの表明であるが決定的に違うところがある。
「○○推しです!」と言うのは愛が重いのだ。
「応援してます!」という言葉には勿論心からの嘘偽りない賛辞も含まれているがその一方で、(どうせこいつ口だけなんだろ?)という上辺だけの言葉とも取れる、いわばどうとでも解釈できる余地がある。
対して「○○推しです!」という言葉にはそういった余地が無い。
対象に対する、無償の愛の告白。
そのくらいの意味を持つほどこの言葉は重く、そしてそれ相応の責任と行動が求められる。
責任と行動、即ち推しへの絶え間ない投資と(許される範囲内での)アプローチである。
投資とは先に述べたイベント参戦、関連グッズ購入のこと。
アプローチとはSNSでの交流、ブログ等々に感想を送ることで推しに自らの思いを伝えること。そして自らもSNS等を用いて推しのことを熱く語ること。*2
推しを宣言した以上、これらはやって当然の行為である。愛する者のためならどんなこともできる、と言われるように。
逆に言えばこれらが出来ていないのであれば「○○推しです!」と名乗る資格は無いのだ。
以上、「推し」という言葉に対して私が感じることを綴ってみた。
あくまで私、ムトウロトという名もなき一個人の押し付けがましい所感でありこれが正しいとは微塵も思っていない(寧ろ間違っているんじゃないかとすら思いもした)。
そしてここで今一度冒頭の一文を振り返る。
私はどんちゃんこと宮下真実を推している。
「推し」という言葉について語った後で我が身を振り返ると、私はどんちゃん推しを名乗るに相応しい人物でいるだろうか…?